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創立者マリー・テレーズ・ド・スビラン 列福80周年に寄せて

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    創立者福者マリー・テレーズの列福80年に当たり、

    福者の生涯を改めて見つめなおしながら、

    その跡に倣っていきたいと思い、記してみました。

    ​

    福者は、困難にある人々のためにひたすら尽くしてこられましたが、

    生涯の終わりには大変大きな苦しみを受けることになり、

    それを御主イエズスの御苦しみに併せながら、

    神に対するゆるぎない信頼と、愛に満たされた生涯を貫いていかれました。

    その御徳は跡に続く私たちの大きな支えとなっています。

    ​

    先ずは、幼少期から天に召されるまでの生涯を、

    数回にわたって綴っていきます。

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    1834年5月14日、爽やかな南フランスの小さな町、カステルノダリーで、

    福者マリ・テレーズは、信仰厚い両親のもとに、

    二番目の子供として呱々の声をあげました。

    父は慈愛に富む優しい人でしたが、貴族の伝統的な価値を重んじる敬虔な人で、

    子供を授かるたびに神に捧げ、こうお祈りするのでした。

    ​

    「主よ、あなたが今私に下さったこの子が、もし永遠の滅びの道を歩むことに

    なるのでしたら、洗礼を受けて清らかなうちにあなたのもとにお呼び戻し下さい」と。

    ​

    この雄々しい祈りの答えであったのか、長男は幼い時に天に召されて行きましたが、

    マリ・テレーズは神の愛の御手の中で、すくすくと育っていきました。

    ​

    3歳の時、彼女はチフスに掛かり、命が危ぶまれるほどの病魔に襲われました。

    しかし、彼女は母の手から聖母マリアに奉献され、奇跡的に回復しました。

    以後、マリ・テレーズは両親の深い愛と信仰に養われ、

    つつましく、優しく、無邪気な子供として成長してゆきました。

    ​

    6歳の時、妹マリーが生まれました。

    マリーの誕生を誰よりも喜んだのはマリ・テレーズでした。

    二人は体つきも性格も対照的で、

    やんちゃなマリーに対してマリ・テレーズは物静かな落ち着いた少女でした。

    ​

    父のスビラン氏は毎年、家族と一緒にカステルノダリー郊外の美しい自然の中で、

    夏休みを過ごすのが慣例でしたが、元気のいいマリーは、

    アヒルやニワトリなとど共に駆け回り、マリ・テレーズはお母さんの手伝いをしながら、

    農園で働く人達に気を配り、子供ながらすでに使徒職の喜びを体験していたのでした。

  • 平和な毎日の中で、マリ・テレーズの心の中には、

    「神さまをお喜ばせするために働きた い」という望みが、

    次第に強くなるのを感じてきました。12歳になり、初めての黙想会に参加した時、

    神は慈しみの内に彼女の心に触れ始めてくださいました。

    神は言いつくしえない優しさをもって彼女の心を完全に占領なさったのです。

    ​

    少女期を回想して、彼女はこう語っています。

    「14歳から 18歳まで、神はその愛の言い尽くせない優しさをもって、

    私の心を奪ってしまわれたのです。そしてこの愛は、

    人々の救いのために活発に働くようにと決意させてくれるのでした。」


    やがて18歳になったマリ・テレーズにとって、世俗を離れ、

    深い沈黙につつまれたカルメル会の祈りと生活は、

    抵抗し難い魅力を持って迫ってきました。

    ​

    しかし、彼女の霊的指導者であつた叔父スビラン神父には、かねがね一つの望みがあり、マリ・テレーズによってそれを実現させたいと夢見ていたのです。

    それは、当時ベルギーで行われていた「ベキナージュ」で、福音的生活に呼ばれながら、

    何かの理由で十全な修道生活を営むことのできない若い女性のために、

    一種の準修道会を設立することでした。

    ​

    マリ・テレーズの心の中は、カルメル会の潜心こそが神への愛と人々の救いのための

    自己奉献を可能にしてくれるという招きと、使徒的活 動への招きの、

    一見矛盾するかに見える二つの間で揺らぎました。

    8日間の黙想を行った後、内心の抵抗を押し切りながら、

    「ベキナージュ」の見学のためにベルギーに旅立ったのでした。

    ​

    彼女は後に、次のようにしたためています。

    「全くの戦いに過ごした一年後、とうとう内心の反抗を押し切って、

    聖なる従順の声と、心の内奥から聞こえてくる声に従おうと、

    決定的に覚悟を決めました。

    これらの声は、共に、ベギナージュのために我意を捨てるよう求めるのでした。

    神により大きな栄光を帰することが出来るとその声は断言するのです。

    ただ、このことだけが私を決意させ、嫌悪の譲渡、恐怖に勝利を得させてくれたのです。」

    この英雄的な決意は、彼女が以後神との分たれない至福まで続く苦難の道においても

    生きる力の源泉になったのです。

    ​

    20才になったマリ・テレーズは、ベルギーのベギナージュの経験を経て

    1854年9月29日にカステルノダリー近郊のボンスクールに数名の同志と赴きました。

    そこで、新しい様式の修道生活をはじめたのです。

    彼女は、神のみ旨を行うという信念以外には、何の富も持っていなかったのです。

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    ​ここからベルギーに向けて出発

  • スビラン神父は、1847年にブリュージュとガンを訪れ、

    この生活様式の中には世俗社会の中では得られない安全性と支えを見出しうると思い、

    当時18歳の姪のテレーズによってこの夢を実現したいと考えていました。 

    ​

    しかし、神の絶対的な招きに一生をもって応え、

    人目につかない隠れた生活を送りたいと願っていたテレーズにとっては、

    反対したい気持ちが強く、二年間の内的葛藤の後に、

    イグナチオの「霊操」による黙想を終えて、

    ついに「最も愛着するものに至るまで、すべてを犠牲に供するように」

    との呼びかけに「はい」と応えたのでした。 

    ​

    ソフィー・テレーズは1853年、1854年の二度にわたってベルギーを訪れ、

    べギナージュの生活を会得した後、カステルノダリーの船着き場に到着するや否や、

    家には帰らないで直ちにボンスクールに向かい、

    数人の同志とともに新しい様式のベギナージュを始めるのでした。

    ボンスクールは、かつて教会参事会員スビラン師がこの土地に建物を建て、

    マリア会の集会に使っていたところで、共同の使用に当てた所でした。

    ​

    創設の初めから、テレーズはガンのベギナージュの規則を大きく変更しました。 

    即ち、ガンのべギナージュのやり方とは違って、共同生活を勧め、財産を共有し、 

    誓願によって貞潔と従順の約束をすることでした。 

    ​

    1855年11月14日に立てたテレーズのこの誓願は、

    ベギナージュの聖堂で捧げられ、人々の大きな関心事となりました。

    また、テレーズにとって「神のみを所有する」という喜びは、

    その後の彼女にとって、

    眼前に立ちはだかるすべての困難を最後まで乗り越える力となったのでした。 

    ​

    誓願によって、メール・テレーズは、若い院長として修練者たちを修道生活へと導き、

    彼女たちのために、使徒的活動の場を開いていくのでした。 

    ​

    最初に始めた事業は、その地の必要に応えて孤児院の設立でした。 

    その動機となったのは、

    貧しい家に生まれ生活に追われる両親から十分な保護を受けられず、

    おまけに結核に侵されていた5歳のブランシュが、ソフィー・テレーズの許に委ねられ、

    テレーズの腕の中で神のもとに召されたことでした。 

    ​

    当時その街で孤児であった子供たちが集められ、

    「子たちの保護事業」と名付けられた孤児院の活動が徐々に活発になって行きました。 

    貧しい中で始められたベギナージュでしたが、

    彼女の計画に賛同する若い女性が次第に集まり、

    近所の人たちからは「苦しみの園」と呼ばれるようになり、

    嬉々としてその困難に打ち勝っていったのです。 

     

    だんだん修道女達が増えてきたため、

    また、子供たちを受け入れるために新しい建物が必要になりました。

    修道女たちは朝早く、労働者が仕事にやってくる前に、石工の仕事を手伝いながら、

    時には、裁縫師にも刺繡師にもなって、食べ物の確保に励むのでした。

    幾度となく、周りから摂理 の手が差し伸べられ、

    匿名の恩人からの差し入れも度々ありました。

    ​

    生計のため修道女はリキュールを製造していましたが、

    若い修道女の不始末から樽の栓が抜かれたまま忘れられ、

    リキュール酒が全部流れ出るというハプニングがありました。

    メール・テレーズは悲嘆にくれる彼女を抱き起して共に祈り、

    夜を明かした翌日、二人が地下に降りてみると、

    リキュール酒は元の樽の中に収まっているではありませんか。

    奇跡のキュールという噂のもとに、大勢の人が買いに来たこともありました。 

    ​

    新しい建物は辛苦の末、5年後に完成しました。 

    1861年11月5日の夜、メール・テレーズは修道女たちに「清貧」の恵みについて語り、

    次のように訓話を締めくくりました。

    「悪い修道女であったり、規律のない不熱心の修道会を創立するよりは、

    死んでしまった方がましです。そうです。神が只一撃のもとにすべてを破壊なさり、

    私たちを焼き尽くしてくださる方がましです。」と。 

    ​

    その言葉に応えるかのように、その夜修道院は火事に見舞われました。

    猛威を振るう炎の中から、マリー・テレーズは聖体を運び出し、

    逃げ惑う子供たちの叫びを耳にして、絶対の信頼をもって、

    炎の中に聖母マリアのスカピラリオを投げ込みました。

    その瞬間、風向きが変わり、

    祈り続けるマリー・テレーズの信頼に聖母は応えてくださったのです。 

    ​

    遠ざかって行く炎の中で、子供たちの救出作業は劇的で、 

    最後の子供が救い出されたと同時に建物が崩れ落ち、

    この火事で誰一人命を失う者はありませんでした。 

                                         

    その夜、修道女たちはご聖体の前に集い、朝まで深い感謝の礼拝を捧げたのでした。

    その日以来、たびたび夜の礼拝が行われ、ここにこそ援助マリア会の

    聖体への召命への起源があったことを認めるようになりました。 

    また、1862年9月には、修道院を聖母マリアに奉献し、

    聖母の保護を讃えて、三つの誓いを立てました。 

    ​

    ①全ての修道女はマリーのみ名をいただくこと。 

     

    ②修道会のすべての聖堂に聖母の御像を安置すること。 

     

    ③聖母マリアを、修道会の頂上として仰ぐこと。 

     

    このことは今もなお、大切に続けられています。 

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    ガンのベギナージュ

    ところで、ソフィー・テレーズが内心の反抗を押し切って、

    聖なる従順の声に従った「ベギナージュ」とはどんなものだったのでしょうか。 

    ​

    「ベギナージュ」は、中世ヨーロッパで発生した一般信徒のための新しい形の観想生活の場であって、

    19世紀になってもこのベギナージュが存在していた地域は、ベルギーのフランドル地方だけでした。

    おもな仕事としては、

    ①布・糸・レースなどの繊維手工業

    ②看護・介護・病人の世話 

    ③貧しい人、障碍者等の慈善活動などで、当時、在俗宗教団体などと並んで、福祉や医療を支えていました。

    ただ、修道誓願を立てず、自由に出入りできる宗教生活で、厳格な修道院とは異なっていました。 

    ボンスクール

    ベギナージュに急ぐ乙女

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    孤児院

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    ​ベギン達の働き

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    ​聖櫃を運ぶマリー・テレーズ

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    聖体礼拝

  • 彼女 の心に今尚燃える感想生活への憧れは、カルメル会へと傾いていくのでしたが、

    何事においても神の栄光だけを求めたマリー・テレーズは、

    深い祈りのうちに、神の御計画を探し求めるのでした。 

    ​

    イエズス会のジナック神父のもとに30日間の黙想を行った後、こう決心しました。

    「神は、援助マリア会の創立を確認してくださいました。私はここに留まり、

    援助マリア会のために働くのが自分の義務であることを神は悟らせてくださいました」。 

     

    早速、マリー・テレーズは、修道女たちの神に徹底的に奉献したい望みに応え、

    三つの誓願によって、その生活をさらに堅固なものへと整えていきました。 

    ​

    三つの誓願とは、分かたれない心で神と人とを愛するため、 

    独身を通すという「貞潔」の誓願と、個人としては何も持たないという「清貧」の誓願、

    そして長上を通して示される神のご意志に完全に従うという「従順」の誓願です。

    ​

    次第に大きくなり、はっきり形を整えてきた修道会のために、 

    次は、修道会の「会則」を作ることが急務です。

    トゥルーズに落ち着いたマリー・テレーズは、

    聖堂に通じた個室の小さな窓からご聖体を仰ぎながら、

    夜を徹して修道会則の草案を綴ったのです。

    「キリストが全てであること」これが彼女の考えを貫く根本精神であり、

    キリスト中心主義を修道生活の中に具体化するため、

    聖イグナチオの霊操、「神のより大いなるご光栄のため、できる限り近くキリストに従い、

    貧しくなったキリストと共に貧しくなる」を、理想とする会則が選ばれたのです。 

     

    いったん神の御心が解れば、躊躇する間も有りません。

    マリー・テレーズは子供の頃から抱いていた使徒職、

    「社会的・家庭的に恵まれていない人たちの諸問題」に心が赴くのでした。 

    ​

    十九世紀半ば、ヨーロッパに於ける産業界の躍進は、

    種々の社会問題を併発していきました。

    フランス社会においても産業革命の発展によって、

    大都会の工場に若い労働者をひき付け、

    農村からの人口流出の速度を急速に速めていました。

    特にトゥルーズ市には失業した大勢の農民が押し寄せていました。 

    親の元から遠方に出稼ぎに行く若い女性のことをマリー・テレーズは気にかけ、

    次のように言っています。

    ​

    「神がこの小さな修道会に与えてくださった目的は、

    14歳から25歳までの若い女性に援助の手を差し伸べること。

    とりわけ、家族から離れて大都会に住み、

    仕事場や工場に通っている若い女性に手を差し伸べることである」と。

    来るべき時代の要求を察知したマリー・テレーズは、

    トゥルーズ市のビッシェ通りに「家族の家」という一種の寮を開設しました。

    そこは、暖かい家庭的雰囲気が流れ、若い女性が一日の仕事を終えて集まり、

    帰ってホッとできる場でした。 

    ​

    マリー・テレーズは、更に、彼女たちの知的、道徳的、宗教的教育に心を配りました。

    同時に、彼女たちの工場に出向いては、労働条件の緩和、職業の斡旋に努め、

    絶えず彼女たちの生活の進歩向上に力を尽くしました。 

    ​

    三年後には、トゥルーズだけでも800人を超える女性が

    この「家族の家」に出入りするようになりました。 

    新しい事業はこうして進展し、他の町から、さらには外国からも、

    司教によって創設を依頼され、全ての要求に応じ切れないほどでした。 

    ​

    熱誠に燃える若い修道女は増え、

    疲れ切って帰ってくる少女たちを母親の愛情をもって迎え、

    健全なリクリエーションを与えたり、

    夜間学校を通して一般教養を身に着けさせたりしたのでした。

    その後アミアン、リヨン、パリに「家族の家」が次々に開設され、

    発展、拡張していきました。 

    ​

    当時、結核菌が猛威を振るう時代、

    工場の激しい労働によって多くの女性が罹患しました。

    その結核にかかった女性に、いち早く目を付けたマリー・テレーズは、

    パリ郊外のシャンローゼにサナトリウムを開設して結核にかかった女性の療養を、

    また、ビルパントに病院等を設立して救護に当るのでした。

    後に、結核菌の発見者となるヴァン・ゴッホは

    ここビルパントの結核病院を訪れています。 

    ​

    まだ、どんな社会福祉制度もなかったころ、「助け合い」の組織を考案したのも、

    マリー・テレーズでした。これは一種の共助組合のようなもので、

    健康な人が、将来のためにお金を積んでおき、

    同時に貧しくて病院に掛かれない人が助けられるという、 

    現在の健康保険や、失業保険の制度の先駆けとなりました。 

    ​

    彼女は言っています。「私たちは、特徴として、あらゆる要求に応じ、

    あらゆる時、あらゆる場所に適合し、他の人々の出来ないことを引き受け、

    教会の承認があるならばどんな事業、どんな手段も、あらかじめ排除してはならない」。

    また「私たちは主に奉仕する人々の末席を汚しているものであると自覚し、

    もっと華やかで高尚な事業によって神に栄光を与える人が残したものを、

    自分の分け前として与えられるのを当然のことと思わなければならない」と。 

     

    「家族の家」の旺盛な時代、1870年に普仏戦争が勃発しました。

    修道女たちの殆んどは、プロシャ軍の占領から逃れるために、

    次々にイギリスにわたり、ロンドンに集合しました。

    亡命は1年つづき、この間、修道女たちは、手内職で生計を営む貧困の生活の故に、

    四度も住まいを変えざるを得ませんでしたが、創立者の周りに皆が結集できたことは、

    援助マリア会の将来にとって決定的な体験となったのです。 

     

    やがて、普仏戦争は終結を見、フランスは再び平和を取り戻しました。

    マリー・テレーズは、イギリスの修道院をマリー・エリザベト(マリー・テレーズ帰天後、第二代会長に就任)に委ねて、帰国したのでした。 

    ​

    一時閉鎖されていた各地の修道院が再開し、

    更に、ブルジュやアンジェにも新しく修道院が創立されました。 

    ​

    アンジェでは、この町の必要に応えて、事業にもう一つの新しい側面が加えられました。

    すなわち、最も貧しい労働者階級の家庭の子供を、両親の留守中預かるという、

    いわゆる「鍵っ子」の教育が始められたのです。 

    ​

    マリー・テレーズは、神の愛のまなざしで社会を見つめ、その中で苦しんでいる人々に、

    次々と、自分たちに出来ることをいろいろ工夫していくのでした。 

    ​

    それらの活動は、人々から喜ばれ、教会からも受け入れられて、

    地味な働きでありながら発展していきました。 

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    カルメル会修道院

    火事の出来事以来、修道女たちは、真の使徒的修道生活を送りたいと渇望するようになりました。

    マリー・テレーズ自身はそれを喜ぶとともに、迷いも感じていました。

    彼女の想いの中には、二つの道が分かれていたからです。

    一つは「ベギナージュ」を解散して、各自が希望する修道会に入会すること、

    又もう一つの道は、今の「ベギナージュ」を母体に、新しい修道会を創立することで した。 

    会則を書くテレーズ

    聖イグナチオ

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    「家族の家」の庭で

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    ​​紡績工場で働く女工

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    トゥルーズで

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    「家族の家」洋裁教室

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    シャンローゼ サナトリウム

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    右下:ヴァン・ゴッホ

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    ヴィルパント結核病院

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    普仏戦争

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    ​「鍵っ子」の教育

  • この頃、援助マリア会は発展・躍進の絶頂にありました。

    誓願者42名、修練者・志願者63名と増えて、アミアンのプディネ司教は次のように書いています。「援助マリア会は時代の要請に応える広大な分野がその情熱の前に開かれている」と。

    ​

    しかし、マリー・テレーズなら、もっとゆっくり事業拡張を推進する方法を選んだでしょうが、

    ジュリ・リッシェにせかされて、あまりにも早く発展したために、

    アミアンでもブールジュにおいても、修道女たちに息切れの兆候が見られるようになりました。

    その上、大きな建物の建築費が、修道会の予算に重くのしかかることになりました。

    実は、ジュリ・リッシェが言う程その状況は悪くはなかった のですが、

    ある日副総長は、会計簿を手に修道会は破産寸前であると宣言し、

    この災難を引き起こした総長には統治・管理能力はないと告発したのです。

    ​

    実は、この会計簿は副総長がでっち上げた虚偽の帳簿であったので すが、

    それが分かったのはかなり後のことであって、

    当時は副総長の表裏ある態度を見抜くことはできなかったのでした。

    ​

    修道会の差し迫った破産の責任は、全てマリー・テレーズにあるということになって、

    ジュリ・リッシェは非難の雨を浴びせかけ、マリー・テレーズは全責任をとって、

    援助マリア会を救うために辞任することを考えましたが、

    その時の心境を彼女は「私はいうに言われぬ苦悶のうちにのたうち回りました」と述べています。

    ​

    今まで相談に乗っていただいていたジナック神父もジュリ・リッシェと会い、

    彼女の信念に心を動かされて、マリー・テレーズが謙遜のあまり自己弁護しなかっただけ、

    副総長の方を信じたのでした。

    ​

    以後、事態は急速に展開します。マリー・テレーズはブールジュの大司教に手紙を送り、

    総長の職責からの辞退を表明するとともに、副総長を後任に任命していただくよう申し出ました。

    大司教は躊躇しながらも承知しました。

    ​

    ジュリ・リッシェは総責任の地位に就くために直ちにブールジュに向かい、

    マリー・テレーズには、その間援助マリア会には帰ってこないようにと言い渡しました。

    彼女はそれを短期罷免と直感しましたが、愛する修道女達のことを思い、

    この要請に素直に従うのでした。

    その後、援助マリア会へ帰ることは、

    何度か延期されていくうちについに決定的追放となったのです。

    ​

    ジュリ・リッシェはマリー・テレーズに援助マリア会の門戸を閉ざすために、

    他者の意見を聞くことなく「創立者は自分の意志で修 道会を去ったのだ」と

    顧問の修道女たちに宣言し、以後、彼女とのどのような連絡も接触も許さなかったのでした。

    ​

    マリー・テレーズは7か月に亘って幾度となく、援助マリア会への復帰が許されないのなら、

    せめてほかの場所ででも、修道生活を送ることができるようにと懇願しました。

    イエズス会のベラール神父もいろいろ手を尽くしたのですが、

    追放に処せられた彼女を引受けてくれる所はどこもありませんでした。

    彼女はかつて1864年に、「徹底的に神にのみ頼る」という信念のために、

    所有権放棄の特別誓願を立てていたことの重みを今、ひしひしと感じたのでした。

    ​

    ところが最後にやっと、「愛徳の聖母修道会」が彼女を引き受けてくれたのです。

    この会は、17世紀中ごろ、聖ヨハネ・ユードによって創立され

    「転落した女性」の更生に献身することを目的とした修道会で、

    マリー・テレーズは1874年に受け入れられ、次の年には、修道志願者として認められて、

    「御心のマリア修女」の名をいただきました。

    ​

    マリー・テレーズにとって、新しい生活が始まりました。

    修道会のすべての習慣に馴染もうと努力するのでした。しかし、人生の転落を経験し、

    心を傷つけている女性達のために積極的な新しい生活を展開するためには体力が続かず、

    ただ彼女たちの世話係をしたり、 修道院の受付をしたりするうちに、

    彼女の存在は次第に皆から忘れ去られるのでした。

    ​

    彼女の心の中には、愛する「援助マリア会」こと、

    また、自分の為に苦境に陥ったであろう妹のことはが渦巻いていましたが、

    やが て1881年には妹も援助マリア会から追放されてこの会に迎え入れられ、

    彼女は神と修道院長に、大きな喜びを表明するのでした。

    ​

    「神よ、あなたのあわれみは言い尽くし得ないものです。

    誰があ なたの計らいを理解出来るでしょうか。

    今日、妹は志願者として受け入れられることになりました。

    主よ、わたしは、いつも、いつも、いつも信じます。

    私や私の愛する人々に対するあなたの愛と全能を。

    あなたが私より幾千倍も深く愛しておられる人々のために、

    あなたはすべてをよく計らって下さることを私は確信いたします」と。

    彼女はその時、妹マリーによって援助マリア会のその後のことも知らされたのでした。

    ​

    彼女は心の中に誓います。

    「今からは、自分を忘れ、何もせず、完全に自分を無にして、主に情熱を燃やしましょう。」

    「御子イエズスは御父のためにそのような態度をおとりになったのです。

    だれもが感嘆の目を見張るような華々しい働きをなさったのではなく、

    ご自分を無にすることによって、御父に光栄を帰せられたのです。」と。

    ​

    数年前から、マリー・テレーズは結核に感染していて、身体は次第に衰弱してきました。

    彼女は死を迎える少し前に、妹マリーや傍らにいた人々に、次のように断言するのでした。

    「私があの世に行ったら、あなた方は神が援助マリア会のためにどんなことをして下さるかが、

    全てお分かりになることでしょう。自分が死ねば、援助マリア会は、生き返るでしょう」

    「自分を無にすることによって、このような賜物を頂くのは、何という幸い、

    何という栄光しょうか。神は私をどれ程愛して下さったことでしょう。

    神からどれ程多くのものをいただいたことでしょう。

    そうです。神は私に広々とした道を開いて下さいました。

    なぜなら神は わたしを本当に愛して下さったからです。」

    ​

    そして、1888年の終わり頃には、寝たきりの状態になって、

    1889年6月7日に、静かに愛して止まない天の御父のもとに旅立ったのでした。

    ​

    彼女が天の国に旅だった八ヶ月後、援助マリア会の顧問会は、

    ジュリ・リッシェがローマから送った一通の手紙を受取りました。

    それには、彼女が総長を辞任し、援助マリア会から退会したい旨が記されて いました。

    「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くのみを結ぶ」創立者の全てを捧げられた犠牲によって、

    援助マリア会は、生返りました。

    1853年、ベギナージュの創設に先立ち、主なる神は既にマリー・テレーズ に、

    やがて来る忍ばねばならない苦しみを示されるのでした。

    「将来いつか援助マリア会から追放されるかもしれない」と。

    それは、「恐怖のために身の毛もよだつほどであった」と彼女は述懐しています。

    ​

    その後の1873年にも、神は、著しいし恩恵の働きによって彼女の心を強め照らしつつ、

    英雄的自己犠牲に向かって準備されるのでした。

    そして、その年の11月にマリー・テレーズは深奥に次のような囁きを聞いたのです。

    「あなたの使命は終わった。間もなくあなたのためには、援助マリア会の中に、

    小さな場所さえも無くなるであろう」と。

    大きな苦悶の後、彼女はイエズスの十字架の苦しみに心を合わせつつ

    「はい」と答えたのでした。

    ​

    その予告された十字架は、援助マリア会の活動がますます旺盛になる頃、

    徐々に訪れ始めたのでした。

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    遡って1868年2月、援助マリア会は、熟年の女性、ジュリ・リッシェを志願者として迎えました。

    この女性は心の面でも、精神の面でも優れた素質を全て備えているように 見えました。何人かの司祭からも推薦されていて、

    正体のはっきりしない人物ではありましたが、彼女は人を惹きつける魅力をもっていて、1871には副総長に選出され、

    援助マリア会に大きな影響力を持つ存在となりました。(後に判明したことですが、彼女は若い時結婚・やがて離婚し、

    偽名を使ってある修道会に在籍していたらしく、修道生活についての深い知識も有していました。)

    ​

    彼女は遠大な計画を立てる人であり、マリー・テレーズはこの経験豊かな女性を大いに 信頼し得る人物と信じて、

    早くからいろいろな重要な責任を持たせたのでした。以後、ジュリ・リッシェはその役目から、

    総長マリー・テレーズに対して助言を与えることが出来るようになり、後にはその権限を乱用するようになったのです。

    ブールジュ大聖堂

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    愛徳の聖母修道会

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    懐かしいシャンロー ゼの聖堂は??

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    晩年のマリー・テレーズ

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  • 1947年12月10日、援助マリア会副総長マリー・ポーラと4人の会員が、

    はるばる大西洋からアメリカ大陸を横断し、太平洋を渡って日本に到着しました。

    ​

    戦後の荒廃した広島県福山市に降り立ったシスター達は、当時の日本は何を必要としているか、

    また、自分たちの手で何が出来るかと、研究を重ねた結果、敗戦の日本の建て直しのためには、

    何より教育が必要であるとの結論を得て、

    『暁の星学院』という教育事業に携わることになったのです。

    ​

    この地にミッションスクールは珍しく、

    しっかりした価値観を持つ女性の教育が高く評価されて、地域の方々から喜ばれました。

    ​

    戦時中に、兵隊の射撃場として使われていた広大な土地に、

    中学校から始めて、高等学校を開設しました。

    ​

    また、時の要請に応じて栄養福祉専門学校、幼稚園、小学校と一連の総合学校に成長し、

    毎年、多くの卒業生を社会に送り出しました。

    ​

    やがて修道者の数が増え、1962年に下関市の長府町に修練院が創設されました。

    1972年には、長崎から大阪へ働きに出て行く若者の支援のために、

    長崎と西宮に修道院が設立されました。

    ​

    それから20年後、1991年には、養成や勉学を必要とする修道者の為に

    東京に支部修道院が設立され、現在に至っています。

    創立者の死後57年後の1946年10月20日、時の教皇ピオ十二世は、

    マリー・テレーズ・ド・スビランに福者の称号を与え、

    バチカン大聖堂で荘厳な、列福式が挙行されました。

    この列福式が、日本創立のきっかけとなったのです。

    ​

    奇しくもその式典に、日本から広島教区長の・ラサール神父(sj) が参列されており、

    戦後日本の再建のために是非日本に来てほしいと、依頼されたのです。

    当時の会長マリ・エリーズは、創立者マリー・テレーズなら喜んで承諾されるだろうと、

    その意を汲んで直ちに派遣を決断しました。

    こうして日本、更にこれを機に世界の各地に、援助マリア会の種が蒔かれることになりました。

    ジュリ・リッシェの退会後、1890年には、マリー・テレーズによって教育され、

    創立に当たってはその右腕となって働いていたマリー・エリザベトが、

    満場一致で新会長に選ばれました。

    彼女は、幅広 い常識、深い賢慮、忍耐と謙遜の徳を兼ね備えている人で、

    皆はその時、マリー・テレーズの蘇りのように感じ、涙にむせんだのでした。

    同席したパリの大司教、リシャー卿も、その感動を次のように語っています。

    「神があなた方のためにして下さったことを感謝しなさい。

    あなた方の内に働いておられる霊は、本当に神の霊です」と。

    ​

    マリー・エリザベトは、先ず、創立者に与えた燔祭の苦しみを償いたいと思い、

    創立当初に綴られた修道会会則の草案を久々に会員に示しながら、

    皆を創立の泉に連れ帰ったのでした。

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    マリー・テレーズが、1874年に修道会から決定的に追放された後も、修道女たちの信頼は裏切られませんでした。

    援助マリア会を破壊し尽くすかに見えた嵐の最中にあって、神は、彼女たちの心に絶え間なく力強く働き続けられたのです。

    ​

    総長に就任したジュリ・リッシェは、統治約16年の間、会員の心からマリー・テレーズの影響を払拭するために

    様々な策を練り、援助マリア会の創立者のことを思い出させるようなものは 一切忘れさせようといろいろ努力したのでした。

    毎年のように修練院の場所を移したり、会則にあるイグナチオ的霊性を故意に排除して、修道女たちの霊的支えとしては、

    次々にフランシスコ会、ドミニコ会、又、オラトリオ会の神父の指導に頼ったのです。

    ​

    また、それまで開設していたいくつかの修道院を閉鎖し、新たに開設するなど、目まぐるしい変動がありました。

    マリー・テレーズの列福式

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    暁の星中・高等学校校舎

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    ミクロネシアポンペイ

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    1891年9月14日には、マリー・エリザベト総長は、創立者の遺体を流謫の地から、援助マリア会の墓地に厳かに埋葬させました。

    正に援助マリア会の再建は、己を投げ打って子供たちの生命を贖った母、マリー・テレーズの尽力の賜物でした。

    墓石には「もし一粒の麦が地に落ちて死なないなら、ただ一つのまま残る。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」と刻まれています。

    ​

    又、マリー・エリザベトは、次回総長マリー・アンジェと共にマリー・テレーズが開いたパリ、 ボスケなどの子女の教育事業に

    力を尽くすと共に、時代の要求に敏感に応えて、家の復興、新たな家の開設など、少しずつ発展させていきました。

    ラサール神父(sj)

    日本における援助マリア会の創立

    日本の創立者

    戦後当時の福山駅

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    長府修道院(現「NPO長府文化村」)

    西宮修道院

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    東京修道院

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    南相馬修道院

    フランスからミッショネールが派遣されて蒔かれた種は33年の間に実を結び、

    日本地区から海外へと枝を伸ばすまでに成長しました。

    1980年、日本地区から派遣されたシスター達の尽力より、オセアニアのポンペイに支部が開設されました。

    更に1985年には、韓国に修道会が設立されました。1996年には、フィリッピンに家を開き、

    心豊かな人たちと共に自立した生活の道を模索しています。また、ポンペイ創立から23年経った2003年には、

    隣の島チュークに渡り、神の国の宣教に当たっていましたが、現在チュークはポンペイ修道院に併合しました。

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    韓国

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    フィリッピン

    前後して、ヨーロッパ地区では、アフリカ大陸に枝を広げ、1968年カメルーンに修道会が創設されました。

    ここでは現在3つの修道院が存在し、主として、カテケージスや病院における医療業務等、地域の必要に応えた活動をしています。

    アフリカ・カメルーン

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    聖堂

    信徒の方々

    若者たち

    子供たち

    援助マリア修道会の特徴は「特定の事業に固執するのではなく、その時代、その国の必要に応じて、

    つつましい草分けの仕事を受け持ち、必要がなくなればそっと身を引くことをモットーとしています。

    19世紀のパリでは、結核患者の減少と共に、結核病棟を廃止して、

    それまで誰も手を付けていなかったハンディキャップを持つ子供の施設に転向。

    また、「家族の家」は暖かい雰囲気を保ったまま「女子寮」として発展してきました。

    こうして援助マリア会は、時の要請に応えて主の宣教事業に従事していくことを喜びとしています。

    ​

    【現在、行っている宣教事業については、このホームページの「世界各地からの便り」 の欄をご覧ください】

    エピローグ

    福者マリー・テレーズが天の父のみ元に帰ってから何年か経って、ジュリ・リッシェも天に旅立ちました。

    そして奇しくも、マリー・テレーズが葬られた墓地の一角に、彼女も葬られたのです。

    きっと、マリー・テレーズは暖かい愛をもって彼女をい抱き寄せ、イエズス・キリストがご自分の御苦しみと死をもって、

    全ての罪人を天の国に引き上げようとされたように、彼女を天の国に導こうとされたのでしょう !!

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    長崎修道院は、都会に働きに出る移動青年のために創立されましたが、その使命を終えました。

    又、長府修道院も修道会の全体の活動の見直しの結果、長府の地元に無償譲渡し「NPO 長府文化村」として発足することになりました。

    2010年東北大震災後より、カリタス南相馬と協働しながら、人々と共に住むために派遣されています。

    日本の現在の修道院は「日本・世界の援助マリア会」の欄をご覧ください。

  • 私は行きずりの旅人にすぎません。

    どうして私に関係のないことを気にするのでしょう。

    私のなすべきただひとつのこと、 それは急いで通り過ぎることなのです。

    姉妹に対しても、またゆだねられた子どもたちの ためにも、

    精いっぱい尽くすこと、

    しかも今の瞬間に全力を尽くすことです。

    ​

    私は通り過ぎる・・・ 急いで通り過ぎる旅人です。

    どうして乗り物について、控室について心配し、

    道で出会う人々を気にかけるのでしょう。

    ​

    私は通り過ぎる・・・ 私は通り過ぎる・・・

    どうして私の健康、力、弱さを気にするのでしょう。

    ​

    私は通り過ぎる・・・ 私は通り過ぎる旅人です。

    私はこの世のものではなく、 向こうの岸で待っておられる神のものです。

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    主よ、私の神よ、

    私が苦しんだ時に全てを導いて下さったのは、あなただと深く確信いたします。

    あなたの要求に応え、恵みに助けられて全てを完全に委託したことの報いとして、

    あなたの慈しみと全能は、全てを整えてくださったのです。

    ​

    主よ、何をもってお返ししましょうか。 あなたにあなたをお捧げしましょう。

    そしてこれからはいつもあなただけ信頼いたし ましょう。

    そうです。私の救いと私の最善のために、 あなたがすべてを行い、すべてを導き、

    全てを整えてくださると信じます。

    ​

    私は信頼だけ致しましょう。

    愛をもって、恐れなく、惜しみなく、御導きに身を委ねましょう。

    そしてあなただけを支えといたしましょう。

    私のためにも、また私の愛する人々、

    しかもあなたの方が幾千倍も深く愛していらっしゃる多くの人々のためにも、

    全てをよく計らってくださるあなたの愛を確信いたします。

    そして、私と私の愛する人々に対するあなたの愛に於いて、 今も永遠も憩います。

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    福者マリ・テレーズがその晩年、生涯を振り返り、

    創立した愛する修道会から出されるという、

    神からの大きな試練と苦難に対して、 限りない感謝と、

    信頼をうたった心の叫びです。

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    私の太陽、それは神です。

    私があえておそばにとどまり、 落ち着いてじっとしていれば、

    神は私を清め、温め、癒してくださるでしょう。

     

    太陽はいつも輝いています。

    神を愛し、眺めつづけるならば、私は神から助けられ、

    神にすべてを補っていただくでしょう。

    ​

    私の太陽のためにすべてを忘れ、私の太陽からすべてをいただき、

    私の太陽とともにすべてを行いましょう。

    ​

    私の太陽のためにいつも働くこと、それは私の憩い、 私の太陽について話すこと、

    それはわたしの唯一の楽しみです。

    私は通り過ぎる・・・

    母に抱かれた子供のように

    私は 神に対して、 もっとも優しい母に抱かれた子供の信頼を持っています。

    ​

    神において、神によって、 私は何一つ心配しません。

    ​

    現世においても、永遠の生命においても、

    神こそ 私に、また私の愛する人々に、

    すべてをお与えになるであろうということを

     

    期待しています。

    神は愛と慈しみをもって私を守り導いてくださる

    神は、愛といつくしみと全能のカをもって、

    絶え間なく私のうちに現存していらっしゃいます。

    ​

    独りでいることを、こんなに恐れている私は、

    実は決して独りではないのです。

    ​

    神の全能と愛は私を守り、

    いつくしみをもって包んでくださいます。

    ​

    神は愛するものの方に身をかがめて交わることを好み、

    さらに、愛するものをご自分にまで高め、

    あらゆる悪から守り、ご目分の宝をもって満たそうと、

    力を尽くしてくださるのです。

    おお、神よ。

    私の心を大きく広げてください。

    ​

    主よ。どうか、もっと大きく広げてください。

    ​

    小さなつまらない関心事をすべて捨て去り、

    ​

    あなたの愛と限りない全能の力に於いて、

    ​

    イエス・キリストに於いて、

    ​

    イエス・キリストによって、

    ​

    全世界を抱かせてください!!

     

     

    福者マリ・テレーズの祈りから

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