

創立者マリー・テレーズ・ド・スビラン 列福80周年に寄せて

創立者福者マリー・テレーズの列福80年に当たり、
福者の生涯を改めて見つめなおしながら、
その跡に倣っていきたいと思い、記してみました。
福者は、困難にある人々のためにひたすら尽くしてこられましたが、
生涯の終わりには大変大きな苦しみを受けることになり、
それを御主イエズスの御苦しみに併せながら、
神に対するゆるぎない信頼と、愛に満たされた生涯を貫いていかれました。
その御徳は跡に続く私たちの大きな支えとなっています。
先ずは、幼少期から天に召されるまでの生涯を、
数回にわたって綴っていきます。



1834年5月14日、爽やかな南フランスの小さな町、カステルノダリーで、
福者マリ・テレーズは、信仰厚い両親のもとに、
二番目の子供として呱々の声をあげました。
父は慈愛に富む優しい人でしたが、貴族の伝統的な価値を重んじる敬虔な人で、
子供を授かるたびに神に捧げ、こうお祈りするのでした。
「主よ、あなたが今私に下さったこの子が、もし永遠の滅びの道を歩むことに
なるのでしたら、洗礼を受けて清らかなうちにあなたのもとにお呼び戻し下さい」と。
この雄々しい祈りの答えであったのか、長男は幼い時に天に召されて行きましたが、
マリ・テレーズは神の愛の御手の中で、すくすくと育っていきました。
3歳の時、彼女はチフスに掛かり、命が危ぶまれるほどの病魔に襲われました。
しかし、彼女は母の手から聖母マリアに奉献され、奇跡的に回復しました。
以後、マリ・テレーズは両親の深い愛と信仰に養われ、
つつましく、優しく、無邪気な子供として成長してゆきました。
6歳の時、妹マリーが生まれました。
マリーの誕生を誰よりも喜んだのはマリ・テレーズでした。
二人は体つきも性格も対照的で、
やんちゃなマリーに対してマリ・テレーズは物静かな落ち着いた少女でした。
父のスビラン氏は毎年、家族と一緒にカステルノダリー郊外の美しい自然の中で、
夏休みを過ごすのが慣例でしたが、元気のいいマリーは、
アヒルやニワトリなとど共に駆け回り、マリ・テレーズはお母さんの手伝いをしながら、
農園で働く人達に気を配り、子供ながらすでに使徒職の喜びを体験していたのでした。
平和な毎日の中で、マリ・テレーズの心の中には、
「神さまをお喜ばせするために働きた い」という望みが、
次第に強くなるのを感じてきました。12歳になり、初めての黙想会に参加した時、
神は慈しみの内に彼女の心に触れ始めてくださいました。
神は言いつくしえない優しさをもって彼女の心を完全に占領なさったのです。
少女期を回想して、彼女はこう語っています。
「14歳から 18歳まで、神はその愛の言い尽くせない優しさをもって、
私の心を奪ってしまわれたのです。そしてこの愛は、
人々の救いのために活発に働くようにと決意させてくれるのでした。」
やがて18歳になったマリ・テレーズにとって、世俗を離れ、深い沈黙につつまれたカルメル会の祈りと生活は、
抵抗し難い魅力を持って迫ってきました。
しかし、彼女の霊的指導者であつた叔父スビラン神父には、かねがね一つの望みがあり、マリ・テレーズによってそれを実現させたいと夢見ていたのです。
それは、当時ベルギーで行われていた「ベキナージュ」で、福音的生活に呼ばれながら、
何かの理由で十全な修道生活を営むことのできない若い女性のために、
一種の準修道会を設立することでした。
マリ・テレーズの心の中は、カルメル会の潜心こそが神への愛と人々の救いのための
自己奉献を可能にしてくれるという招きと、使徒的活 動への招きの、
一見矛盾するかに見える二つの間で揺らぎました。
8日間の黙想を行った後、内心の抵抗を押し切りながら、
「ベキナージュ」の見学のためにベルギーに旅立ったのでした。
彼女は後に、次のようにしたためています。
「全くの戦いに過ごした一年後、とうとう内心の反抗を押し切って、
聖なる従順の声と、心の内奥から聞こえてくる声に従おうと、
決定的に覚悟を決めました。
これらの声は、共に、ベギナージュのために我意を捨てるよう求めるのでした。
神により大きな栄光を帰することが出来るとその声は断言するのです。
ただ、このことだけが私を決意させ、嫌悪の譲渡、恐怖に勝利を得させてくれたのです。」
この英雄的な決意は、彼女が以後神との分たれない至福まで続く苦難の道においても
生きる力の源泉になったのです。
20才になったマリ・テレーズは、ベルギーのベギナージュの経験を経て
1854年9月29日にカステルノダリー近郊のボンスクールに数名の同志と赴きました。
そこで、新しい様式の修道生活をはじめたのです。
彼女は、神のみ旨を行うという信念以外には、何の富も持っていなかったのです。



ここからベルギーに向けて出発
スビラン神父は、1847年にブリュージュとガンを訪れ、
この生活様式の中には世俗社会の中では得られない安全性と支えを見出しうると思い、
当時18歳の姪のテレーズによってこの夢を実現したいと考えていました。
しかし、神の絶対的な招きに一生をもって応え、
人目につかない隠れた生活を送りたいと願っていたテレーズにとっては、
反対したい気持ちが強く、二年間の内的葛藤の後に、
イグナチオの「霊操」による黙想を終えて、
ついに「最も愛着するものに至るまで、すべてを犠牲に供するように」
との呼びかけに「はい」と応えたのでした。
ソフィー・テレーズは1853年、1854年の二度にわたってベルギーを訪れ、
べギナージュの生活を会得した後、カステルノダリーの船着き場に到着するや否や、
家には帰らないで直ちにボンスクールに向かい、
数人の同志とともに新しい様式のベギナージュを始めるのでした。
ボンスクールは、かつて教会参事会員スビラン師がこの土地に建物を建て、
マリア会の集会に使っていたところで、共同の使用に当てた所でした。
創設の初めから、テレーズはガンのベギナージュの規則を大きく変更しました。
即ち、ガンのべギナージュのやり方とは違って、共同生活を勧め、財産を共有し、
誓願によって貞潔と従順の約束をすることでした。
1855年11月14日に立てたテレーズのこの誓願は、
ベギナージュの聖堂で捧げられ、人々の大きな関心事となりました。
また、テレーズにとって「神のみを所有する」という喜びは、
その後の彼女にとって、
眼前に立ちはだかるすべての困難を最後まで乗り越える力となったのでした。
誓願によって、メール・テレーズは、若い院長として修練者たちを修道生活へと導き、
彼女たちのために、使徒的活動の場を開いていくのでした。
最初に始めた事業は、その地の必要に応えて孤児院の設立でした。
その動機となったのは、
貧しい家に生まれ生活に追われる両親から十分な保護を受けられず、
おまけに結核に侵されていた5歳のブランシュが、ソフィー・テレーズの許に委ねられ、
テレーズの腕の中で神のもとに召されたことでした。
当時その街で孤児であった子供たちが集められ、
「子たちの保護事業」と名付けられた孤児院の活動が徐々に活発になって行きました。
貧しい中で始められたベギナージュでしたが、
彼女の計画に賛同する若い女性が次第に集まり、
近所の人たちからは「苦しみの園」と呼ばれるようになり、
嬉々としてその困難に打ち勝っていったのです。
だんだん修道女達が増えてきたため、
また、子供たちを受け入れるために新しい建物が必要になりました。
修道女たちは朝早く、労働者が仕事にやってくる前に、石工の仕事を手伝いながら、
時には、裁縫師にも刺繡師にもなって、食べ物の確保に励むのでした。
幾度となく、周りから摂理 の手が差し伸べられ、
匿名の恩人からの差し入れも度々ありました。
生計のため修道女はリキュールを製造していましたが、
若い修道女の不始末から樽の栓が抜かれたまま忘れられ、
リキュール酒が全部流れ出るというハプニングがありました。
メール・テレーズは悲嘆にくれる彼女を抱き起して共に祈り、
夜を明かした翌日、二人が地下に降りてみると、
リキュール酒は元の樽の中に収まっているではありませんか。
奇跡のキュールという噂のもとに、大勢の人が買いに来たこともありました。
新しい建物は辛苦の末、5年後に完成しました。
1861年11月5日の夜、メール・テレーズは修道女たちに「清貧」の恵みについて語り、
次のように訓話を締めくくりました。
「悪い修道女であったり、規律のない不熱心の修道会を創立するよりは、
死んでしまった方がましです。そうです。神が只一撃のもとにすべてを破壊なさり、
私たちを焼き尽くしてくださる方がましです。」と。
その言葉に応えるかのように、その夜修道院は火事に見舞われました。
猛威を振るう炎の中から、マリー・テレーズは聖体を運び出し、
逃げ惑う子供たちの叫びを耳にして、絶対の信頼をもって、
炎の中に聖母マリアのスカピラリオを投げ込みました。
その瞬間、風向きが変わり、
祈り続けるマリー・テレーズの信頼に聖母は応えてくださったのです。
遠ざかって行く炎の中で、子供たちの救出作業は劇的で、
最後の子供が救い出されたと同時に建物が崩れ落ち、
この火事で誰一人命を失う者はありませんでした。
その夜、修道女たちはご聖体の前に集い、朝まで深い感謝の礼拝を捧げたのでした。
その日以来、たびたび夜の礼拝が行われ、ここにこそ援助マリア会の
聖体への召命への起源があったことを認めるようになりました。
また、1862年9月には、修道院を聖母マリアに奉献し、
聖母の保護を讃えて、三つの誓いを立てました。
1.全ての修道女はマリーのみ名をいただくこと。
2.修道会のすべての聖堂に聖母の御像を安置すること。
3.聖母マリアを、修道会の頂上として仰ぐこと。
このことは今もなお、大切に続けられています。



ガンのベギナージュ
ところで、ソフィー・テレーズが内心の反抗を押し切って、
聖なる従順の声に従った「ベギナージュ」とはどんなものだったのでしょうか。
「ベギナージュ」は、中世ヨーロッパで発生した一般信徒のための新しい形の観想生活の場であって、
19世紀になってもこのベギナージュが存在していた地域は、ベルギーのフランドル地方だけでした。
おもな仕事としては、
①布・糸・レースなどの繊維手工業
②看護・介護・病人の世話
③貧しい人、障碍者等の慈善活動などで、当時、在俗宗教団体などと並んで、福祉や医療を支えていました。
ただ、修道誓願を立てず、自由に出入りできる宗教生活で、厳格な修道院とは異なっていました。
ボンスクール
ベギナージュに急ぐ乙女

孤児院

ベギン達の働き

聖櫃を運ぶマリー・テレーズ


聖体礼拝
彼女 の心に今尚燃える感想生活への憧れは、カルメル会へと傾いていくのでしたが、
何事においても神の栄光だけを求めたマリー・テレーズは、
深い祈りのうちに、神の御計画を探し求めるのでした。
イエズス会のジナック神父のもとに30日間の黙想を行った後、こう決心しました。
「神は、援助マリア会の創立を確認してくださいました。私はここに留まり、
援助マリア会のために働くのが自分の義務であることを神は悟らせてくださいました」。
早速、マリー・テレーズは、修道女たちの神に徹底的に奉献したい望みに応え、
三つの誓願によって、その生活をさらに堅固なものへと整えていきました。
三つの誓願とは、分かたれない心で神と人とを愛するため、
独身を通すという「貞潔」の誓願と、個人としては何も持たないという「清貧」の誓願、
そして長上を通して示される神のご意志に完全に従うという「従順」の誓願です。
次第に大きくなり、はっきり形を整えてきた修道会のために、
次は、修道会の「会則」を作ることが急務です。
トゥルーズに落ち着いたマリー・テレーズは、
聖堂に通じた個室の小さな窓からご聖体を仰ぎながら、
夜を徹して修道会則の草案を綴ったのです。
「キリストが全てであること」これが彼女の考えを貫く根本精神であり、
キリスト中心主義を修道生活の中に具体化するため、
聖イグナチオの霊操、「神のより大いなるご光栄のため、できる限り近くキリストに従い、
貧しくなったキリストと共に貧しくなる」を、理想とする会則が選ばれたのです。
いったん神の御心が解れば、躊躇する間も有りません。
マリー・テレーズは子供の頃から抱いていた使徒職、
「社会的・家庭的に恵まれていない人たちの諸問題」に心が赴くのでした。
十九世紀半ば、ヨーロッパに於ける産業界の躍進は、
種々の社会問題を併発していきました。
フランス社会においても産業革命の発展によって、
大都会の工場に若い労働者をひき付け、
農村からの人口流出の速度を急速に速めていました。
特にトゥルーズ市には失業した大勢の農民が押し寄せていました。
親の元から遠方に出稼ぎに行く若い女性のことをマリー・テレーズは気にかけ、
次のように言っています。
「神がこの小さな修道会に与えてくださった目的は、
14歳から25歳までの若い女性に援助の手を差し伸べること。
とりわけ、家族から離れて大都会に住み、
仕事場や工場に通っている若い女性に手を差し伸べることである」と。
来るべき時代の要求を察知したマリー・テレーズは、
トゥルーズ市のビッシェ通りに「家族の家」という一種の寮を開設しました。
そこは、暖かい家庭的雰囲気が流れ、若い女性が一日の仕事を終えて集まり、
帰ってホッとできる場でした。
マリー・テレーズは、更に、彼女たちの知的、道徳的、宗教的教育に心を配りました。
同時に、彼女たちの工場に出向いては、労働条件の緩和、職業の斡旋に努め、
絶えず彼女たちの生活の進歩向上に力を尽くしました。
三年後には、トゥルーズだけでも800人を超える女性が
この「家族の家」に出入りするようになりました。
新しい事業はこうして進展し、他の町から、さらには外国からも、
司教によって創設を依頼され、全ての要求に応じ切れないほどでした。
熱誠に燃える若い修道女は増え、
疲れ切って帰ってくる少女たちを母親の愛情をもって迎え、
健全なリクリエーションを与えたり、
夜間学校を通して一般教養を身に着けさせたりしたのでした。
その後アミアン、リヨン、パリに「家族の家」が次々に開設され、
発展、拡張していきました。
当時、結核菌が猛威を振るう時代、
工場の激しい労働によって多くの女性が罹患しました。
その結核にかかった女性に、いち早く目を付けたマリー・テレーズは、
パリ郊外のシャンローゼにサナトリウムを開設して結核にかかった女性の療養を、
また、ビルパントに病院等を設立して救護に当るのでした。
後に、結核菌の発見者となるヴァン・ゴッホは
ここビルパントの結核病院を訪れています。
まだ、どんな社会福祉制度もなかったころ、「助け合い」の組織を考案したのも、
マリー・テレーズでした。これは一種の共助組合のようなもので、
健康な人が、将来のためにお金を積んでおき、
同時に貧しくて病院に掛かれない人が助けられるという、
現在の健康保険や、失業保険の制度の先駆けとなりました。
彼女は言っています。「私たちは、特徴として、あらゆる要求に応じ、
あらゆる時、あらゆる場所に適合し、他の人々の出来ないことを引き受け、
教会の承認があるならばどんな事業、どんな手段も、あらかじめ排除してはならない」。
また「私たちは主に奉仕する人々の末席を汚しているものであると自覚し、
もっと華やかで高尚な事業によって神に栄光を与える人が残したものを、
自分の分け前として与えられるのを当然のことと思わなければならない」と。
「家族の家」の旺盛な時代、1870年に普仏戦争が勃発しました。
修道女たちの殆んどは、プロシャ軍の占領から逃れるために、
次々にイギリスにわたり、ロンドンに集合しました。
亡命は1年つづき、この間、修道女たちは、手内職で生計を営む貧困の生活の故に、
四度も住まいを変えざるを得ませんでしたが、創立者の周りに皆が結集できたことは、
援助マリア会の将来にとって決定的な体験となったのです。
やがて、普仏戦争は終結を見、フランスは再び平和を取り戻しました。
マリー・テレーズは、イギリスの修道院をマリー・エリザベト(マリー・テレーズ帰天後、第二代会長に就任)に委ねて、帰国したのでした。
一時閉鎖されていた各地の修道院が再開し、
更に、ブルジュやアンジェにも新しく修道院が創立されました。
アンジェでは、この町の必要に応えて、事業にもう一つの新しい側面が加えられました。
すなわち、最も貧しい労働者階級の家庭の子供を、両親の留守中預かるという、
いわゆる「鍵っ子」の教育が始められたのです。
マリー・テレーズは、神の愛のまなざしで社会を見つめ、その中で苦しんでいる人々に、
次々と、自分たちに出来ることをいろいろ工夫していくのでした。
それらの活動は、人々から喜ばれ、教会からも受け入れられて、
地味な働きでありながら発展していきました。
ここから後は、順を追って書き綴っていくつもりです。
5.会の発展と副総長
6.福者会から追い出される。 列福


カルメル会修道院
火事の出来事以来、修道女たちは、真の使徒的修道生活を送りたいと渇望するようになりました。
マリー・テレーズ自身はそれを喜ぶとともに、迷いも感じていました。
彼女の想いの中には、二つの道が分かれていたからです。
一つは「ベギナージュ」を解散して、各自が希望する修道会に入会すること、
又もう一つの道は、今の「ベギナージュ」を母体に、新しい修道会を創立することで した。
会則を書くテレーズ
聖イグナチオ

「家族の家」の庭で

紡績工場で働く女工

トゥルーズで

「家族の家」洋裁教室



シャンローゼ サナトリウム

右下:ヴァン・ゴッホ

ヴィルパント結核病院

普仏戦争

「鍵っ子」の教育
